「バガボンド」と宮本武蔵
今朝ほど紹介したブログで井上雄彦の「バガボンド」についての海外の評判を取り上げています
当ブログでも宮本武蔵については2度、取り上げました
劇場版アニメ「宮本武蔵-双剣に馳せる夢」
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史実に執着するつもりはありませんし、吉川英治の小説は大変によくできた時代小説なのですが、現在では吉川版武蔵に物足りなさを感じているのも事実です
したがって「バガボンド」が吉川版武蔵であることにも物足りなさを感じてしまいます(贅沢な話ですが)
佐々木小次郎が実在しない架空の人物で、巌流島の対決が史実として存在しなかったとすれば、これを武蔵の物語のハイライトに据えることはできません
そのように一度思ってしまうと、さまざまな可能性が去来します
前に武蔵と林羅山の交流について触れました
以下は自分の勝手な推測で、文献など当たった上での解釈ではありませんので念のためにお断りしておきます
京都で林羅山と逢った武蔵は、己の剣を世に問い、どのように評価されるか期待と不安を抱いた若者であったと思います。林羅山も己の朱子学という理を世に問い、戦国乱世後の政(まつりごと)を為政者の我欲によるものではなく、理による統治にしたいとの野望を抱いた人物ではなかったかと想像します
武蔵は無名の武芸者にすぎず、羅山も無名の学僧で幕府の中枢から遠く離れた場で夢想に浸っていたにすぎませんが
この二人が意気投合し、若者らしく己の野望について語り合う姿を想像すると吉川版武蔵とは別の物語が描けそうに思います
吉川版武蔵の登場人物、本位田又八やお通も確かに魅力的な人物ですが、保科正之や烏丸光広など絡め、幕藩体制が確立しつつあった江戸時代初期の社会に武蔵がどう生きたのか、描いてもらいたい気がします
当時、すでに無名の武芸者が剣のみでのし上れるような社会ではなくなっていたのではないでしょうか?
そして理による統治を目指す羅山は武家社会にさまざまな規律を確立し、社会秩序の構築を目指します
つまり武蔵のような武芸者が台頭する余地はますます狭まるわけです
ですから武蔵は自由奔放に生きたわけではなく、世の秩序からはみ出した側にいたと言うべきでしょう
当時は幕藩体制確立のため大名家の取り潰しが相次ぎ、主家を失った浪人が巷に溢れていました。剣の腕が立つというだけでは新規に仕官するもの難しく、武蔵でさえ例外ではなかったと思われます
求道者武蔵という吉川版の位置づけは、従来の講談で語られてきた剣豪武勇伝から一線を画したものではありますが、それでもなお描ききれていない部分が多々あるに違いありません
「バガボンド」は読みつつ、吉川版武蔵にかわる物語を誰か描いてくれないものかと思い続けています
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