家庭内暴力を理解するモデル

少し古い本ですが、山崎哲著『「少年」事件ブック』というものがあります
劇作家山崎哲はさまざまな事件を題材にした戯曲を書くとともに、一時期ワイドショーのコメンテーターとして発言していました
この『「少年」事件ブック』も山崎の事件に対する知見を示す一冊です
中身は神戸連続児童殺傷事件、オウム真理教事件、いじめや家庭内暴力など多岐に渡っています
その中で、1996年11月に発生した東京文京区で父親が家庭内暴力を続ける長男を撲殺してしまった事件の部分に、家庭内暴力を振るう少年が両親を殺害することなどありえない。あえて繰り返すが、家庭内暴力を振るう少年の主題は両親殺しではなく、自らが『自立』することだからであると書いています。
しかしその後、家庭内暴力や引きこもりの青少年が親を殺傷する事件が発生しています
家庭内暴力を破壊と再生の過程だと解釈する山崎のモデルは妥当だと思うのですが、すべてのケースがこのモデルどおりだとは限りません
暴力はその行使を誤れば人の命を奪うものだからです。つまり両親に暴力を振る少年は殺意を抱いていないものの、勢いあまって殺してしまう可能性があるということです
あるいは両親に反抗できない気弱な少年が、明確な殺意のもと周到な計画を立てて殺害を実行した事件もあります。これは常習的な家庭内暴力とは異なる例なので、別に考えるべきなのでしょう
家庭内暴力にしろその他の事件にしろ、モデル(仮説)を構築して考えるわけですが、その仮説が万能とは限らないのです
山崎哲の家庭内暴力のモデルがまったく的外れというわけではありません。ほとんどのケースが説明できる普遍性があると考えます
しかし、警戒するべきはモデルありきの考えに走り、モデルを機械的に当てはめるだけで事件を理解して気になってしまうことです
それぞれのケースごとに必ず個人の事情や家庭の事情が絡んでおり、それを無視して「家庭内暴力などこんなものだ」とモデルどおりの解釈をするだけなら、とんでもない読み違いをしてしまうでしょう
これは精神分析も同じです。ただ学説どおりのモデルを当てはめるだけの分析は失敗に終わります

(関連記事)
「人を殺す経験がしたかった」 豊川事件を考える 1
「人を殺す経験がしたかった」 豊川事件を考える 2
「人を殺す経験がしたかった」 豊川事件を考える 3
最終回 豊川事件について考える 4
島根女子大生遺棄事件を考える11 事件の相違点
神戸連続児童殺傷事件 被害者の父親が手記



この記事へのトラックバック