不倫は女の純文学?

2001年頃だったと思いますが、インターネットの掲示板で不倫について意見交換している板があり、観察していたことがあります
不倫体験の書き込みをしている女性の場合、かなり長い文章を書く傾向があるのがわかりました。文章が長いのにつじつまが合い、きちんと整合しているのです
精神的な疾患をもちながらも自分自身についてかなり長い文章を書く人もいますが、その場合は文章のどこかで破綻しており、つじつまが合わないケースが多いのです
ですから不倫をしている人の場合、見当識はしっかりしており自分を含む周囲の状況をきちんと把握できているのでしょう
もちろん冷静さを欠き、周囲が見えなくなるほど不倫にのめりこんでいる人も現実にはいるのですが、そうした人は手間隙かけて掲示板に自分の体験を書き込むような真似はしません
ではなぜ、手間隙かけて自分の体験を長い文章にして書き込むのでしょうか
「誰かに読ませたい」、「読んでもらいたい」、「体験を自慢したい」などなど動機は考えられます
勝手に推測するしかないのですが、不倫に浸り、悩み、迷い、後悔し、楽しみ、おぼれながらも、どこかで「不倫をしている私」を眺めている私(彼女自身)が存在しているかのように感じます
つまり「不倫を演じている私」を眺めている私があり、シナリオを書いている私があり、監督をしている私がいるように
これは二重人格などというものではなく、自分の行動を鏡に映して確認しているようなものです
不倫を純文学にたとえたのは、どこかにそうした「創作行為」めいたニュアンスを感じたからでもあります
ですが、不倫を賛美するつもりはまったくありません
それが実際にドロドロでグダグダの、世間の人が見れば眉をひそめるような行為であったとしても、当人が「かくのごとくありたい」と強烈に願い、求めるがゆえに、、派手に脚色され涙を誘う悲恋のごとく美化されてしまうからです
ただの男女の痴情(身も蓋もない言い方をあえてしますが)を、一編のドラマのごとく描こうとする意図、を掲示板の不倫体験披露から感じました
ただ、こうした体験の美化も、小説家の抱く「表現したいという欲求」も根は同じものですから、「表現したいという欲求」が高まり、洗練され、鍛え上げられればそこから文学作品が生まれる可能性だって十分にあるわけです
かつて「不倫は文化だ」と発言して袋叩きにあった俳優がいました世間はそれほど寛容ではないのです
ですから、「不倫は女の純文学だ」などといえば叱責が飛んできそうです

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