和歌山毒入りカレー事件の判決を聞いて

新聞の論調として、「裁判は真実を明らかにする場」だとの主張があります
これは裁判制度に対する誤解であり、誤認です
刑事裁判は検察側、弁護側双方の主張を比較し、どちらの主張に分があるのかを裁判官が判断するものです
ですから「真実」がどうあれ、そこにあるのは検察側の立証した「事実」と弁護側の主張する「事実」だけです
先にも触れましたが宮崎勤による連続児童殺害事件で、ジャーナリストの吉岡忍は動機の解明が不十分であると判決を批判しました。なぜ宮崎が事件を起こしたのか、時代意識にまで踏み込んで解明する必要があると
しかし、裁判官は社会学者ではありませんし、哲学者でもありません。検察側、弁護側の主張に判断を下すのが職務です
よって動機の解明は裁判の目的ではなく、動機の解明されない判決が不当というわけでもありません
今回の和歌山毒入りカレー事件でも林真須美の動機は解明されないままです
本人が供述しないのだから、知りようがないのです
もちろん事件当時の状況からあれこれ憶測するのは可能ですが、おそらくは見当違いな空論になってしまうのでしょう
ジャーナリストや作家が拘置所に収監されている死刑囚と文通を試み、手紙のやり取りを重ねるうちにすっかり感情移入してしまい、死刑囚の擁護者や代弁者と化してしまうケースがしばしばあります
本人は取材の結果、「本人の人間性を理解したから」だと主張するかもしれませんが、精神分析の場ではこうした現象を「転移」だと判断します
つまり相手の感情に影響され、翻弄され、惹き込まれてしまうのです
そして自分ではそうと気がつかないまま、相手の言いなりと化し、行動するようになるのです
相手との距離がとれなくなり、一心同体のようになってしまうのです
精神分析はこの「転移」を意図的に活用する技法なので、分析家は転移について嫌というほど勉強させられます
他方、カウセリングなどの心理技法の中には「転移」という概念が存在しないものもありますので、カウンセラーでも「転移」に気がつかないままクライアントに翻弄されてしまい、感情移入して「擬似恋愛関係」に陥ってしまう例もあります
新聞記者らジャーナリストたちは拘置所へ通い、未決囚への面会を求めます。そこでは「自分こそが事件について何らかの真相を聴きだせるかもしれない」との思惑があります
その思惑こそが転移の入り口であり、すでに相手の術中に落ちている証です
事件を客観的に報道する立場でありながら、被告人に同情し、入れ込んでしまう下地ができあがってしまっているわけです
取材のためになら相手に取り入り、おもねり、相手から気に入られるような行動も辞さないとする事情もあるのでしょうが(そこまでして、記事にするネタがほしいわけで)

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