ヴィジュアルはイマージュを否定する

残念ながらヴィジュアル系バンドの話ではありません
ノートにメモしておいたのが「ヴィジュアルはイマージュを否定する」という文言と、いわゆる「9・11事件」に関する覚書です
おそらくミシェル・フーコーの著作か対談集を読みながらその文言を発見し、ノートにメモしたのだと思いますが、出典がどの本であったのか明記されていません
「9・11事件」のとき、深夜にテレビを見たら航空機がニューヨークの貿易センタービルに突入する映像を繰り返し流していました
何が起きているのが詳細は不明のまま、ただ航空機がビルに突入する映像を繰り返し見せられる・・・・
「何か大変な事態になっている」のは分かるものの、何が起きているのか分からないまま宙吊りにされてしまったような体験でした
その体験を端的に表現しているのがこの「ヴィジュアルはイマージュを否定する」との文言です
圧倒的な映像の迫力の前に言葉を失い、思考さえ奪われ何も思い浮かばない状態があります
映像の種類によっては言葉にできないほどの感動を味わったりもしますし、あるいはとてつもない恐怖を味わったり、耐え難いほどの苦痛や嫌悪を味わう場合もあります
そこにあるのは光を放つディスプレイでもなく、スクリーンに投影された光の明滅でもなく、問答無用で襲い掛かってくる圧倒的な情報です
朝日新聞はジャーナリスト宣言で、「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを」とキャンペーンを展開していました。これをヴィジュアルに置き換えても違和感はないでしょう
ジャーナリストの書くルポルタージュよりも1枚の写真の方がはるかに説得力を持つ、という例もあります
しかし、それは同時に映像(ヴィジュアル)が言葉(ルポルタージュ)を圧倒し、駆逐してしまう危険の表れでもあります
映像によって人々の感情を操作し、誘導し、扇動する可能性もあるのです
記憶にあるところでは、瀋陽の日本総領事館に駆け込もうとした脱北者親子を中国人の警察官が取り押さえようとしている映像があります。あのニュースを見て怒りを感じた人は多かったのではないでしょうか
背後にある事情や経緯はともかくとして、映像に我々の感情は反応してしまうのです
映像に踊らされたり騙されないよう、常々自戒しなければならないと思います
また、ビジュアルを抑制することがイマージュを刺激するという事実も重要です
小学生低学年の頃、担任の教師がよく本の朗読をしてくれました。ただ読み上げる声が響くだけの教室で、イマージュを膨らませて戯れていた・・・・幸福な体験です



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